1977年10月10日、細迫節夫は、未明から5時間かけて登頂した石鎚山の山頂で、こう「宣言」した。

八百万の神様と大自然に向けての宣言である。

「私は教育の現場と理論を結ぶ接点として、教師、親、すべての教育関係者を繋ぐ糸としての

マスコミ・ジャーナリズムの役割を認識しつつ、教育雑誌の発行と出版社の設立を決意するに至った。

出版社は“営利優先”“大手指向”とは完全に決別し、雑誌は以下のような性格を持つであろう。


(1)地域誌—課題、市場をあえて高知県内に限定し、企画に住民参加の方法を考える。

(1)専門誌—教育分野に対する、教育の専門家による編集。 


多くの人々の心を開いた努力、知恵、措置が積み重ねられなければならない。
私はそれを繋ぎたい。
私はたとえどんな僻地であろうとも、そこに教育の話題があるならば、文字通り東奔西走する決意である。

教育への情熱を日々新たにしながら、青春を賭け、県内を駆けまわろう。
あした子どもの瞳の輝くのを見るために−。」




 

 


1978〜1985年、29歳の元熱血教師・細迫が起業。
車をモバイルな事務所にして教育雑誌『なんぷう』を創刊した。

初めての単行本『数学なんかやっつけろ』が朝日新聞の全国版の書評欄に
『窓際のトットちゃん』と並んで大きく紹介され、
1万部をヒットするビギナーズラックの本となる。
しかし、まさか全国の流通に乗るとは思わず、原価と定価の計算が合わないまま、

売れるとソンをするという摩訶不思議なデビュー。「数学にすっかりやっつけられてしまった」というオチ。

 


 

細迫一人の会社からの脱皮である。昭和町に事務所を開いたのが1986年。

当時まだ高額だったコンピュータを導入し、自費出版事業を開始した。

この時、くにみつが遊びに来て、手伝って、そのまま働くという「居座り就職」をした。

模造紙に社名を描いて窓に張ったのが初の仕事。エアコンなどなく、夏は40℃近くまで室温が上がるため、

たて簾を立てかけ、あさがおを植え、アイスキャンデーを食べてしのいだ。今にして思えば、のどかな風景。

1冊の本を仕上げるのに、時間と手間をたくさんかけていた「マニファクチュア」の時代でもある。

入ったお金を、いる人で分ける、といった感じで、南の島のような会社だった。 

 


 

細迫が『株式会社のつくり方』という本を買ってきて、「これでやるぞっ」と突然宣言。

ありがたいことにたくさんの友人・親戚が出資してくれ800万円が集まり、株式会社にすることができた。

ここから「産業革命」が始まる。高額な機械をローンで買い、若い人も雇い、社会的な責任を果たすことを決意する。

1993年、神田に社屋を建てた。寺山が加わり、南の風社のデザインが大きく飛躍していく。

この間のヒット本は、『なぜなぜ科学館』、『どんとこい学級崩壊』『自分にファイト!』……と、
1万部近くの本が数点誕生している。
「なぜなぜ号」「どんとこい号」と呼ぶ車も買うことができた。

 

 

 

2002〜2002年以降のこと。印刷世界ではIT技術の革新が業界を大きくゆるがしていく。

わたしたちもどこへ向かうのかを問われることに。結論は、大きな借金を抱えて購入した機械を、
涙をのんで廃棄することを決意する。

——「編集」を核にする、ここに収斂された。地域を、若い人を巻き込んでの活動に展開させたプロジェクトが、

「バーチャル本川村」と「いなかインターンシップ」。

「いなかインターンシップ」は、若者には斬新なアイデアや熱意がある、いなかには人を育てる力がある、

そのいいところを掛け算した取り組みで、高知の、いや日本の未来を拓いていこうという壮大なプロジェクトである。

現在の20歳代のスタッフ、片岡、宮脇が加わることで、「編集×デザイン」を活かせるチームが育ってきた。

本づくりはもちろんのこと、地域活性化、教育プログラム……と、編集・デザインの力を発揮して、表現の世界が広がってきた。

2009年、NPO法人「人と地域の研究所」を立ち上げ、公益性の高い業務は、研究所でおこなっていくことに。

 


 

さて、未来の南の風社は……? 
今の20代がつくっていき、相変わらず3時のティータイムでなごんでいると思う。
どんな風が土佐に吹いているのか、とても楽しみ。